マーシャルの歴史

太平洋の偉大な航海者 カヌーを操り、島々を開拓

今から千数百年前、島民たちの祖先は東南アジアからカヌーに乗り、優れた航海術を用い、島から島へと辿り、大海原に浮かぶさんご礁の島にたどり着いた。

 

マーシャルのさんご礁島は山も川もなく、土壌は少なく、そして強い潮風にさらされる過酷な自然だった。

 

この環境に適したヤシやパンの木、タコの木を植え、魚介類を無駄に捕獲することなく、自然と調和した暮らしを数百年続けてきた。

マーシャルの外洋航海用大型カヌー 女性や子ども、家畜、ヤシやパンの木の苗木を積み、海を渡った。
(D.Spennemann コレクションより)


マーシャル諸島地図
マーシャル諸島地図

1526年スペイン船マーシャルを“発見”。1885年ドイツの保護領に

1526年、グアムに向かっていたスペイン探検船がマーシャル最北端のタオンギ環礁を発見。

しかし、マーシャルは長い間西欧列強の開拓の間隙にあった。

島々では、伝統的な首長制度のもと、比較的平和な営みを続けていた。

1788年、イギリス東インド会社の帆船がマーシャル諸島中央部の島々を発見。

船長名にちなみマーシャル諸島と命名し、ようやく西欧諸国の関心を集めるようになった。

1820年代に入り、米国捕鯨船団が太平洋でくまなく操業するようになると、粗暴な船員たちによって疫病が蔓延。

島民への残虐行為や誘拐などが頻発した。これに反発した島民による外来者への襲撃・殺害事件が起こった。

1860年、ドイツ人カペレによりマーシャル初のヤシ油工場がエボン環礁で操業開始。

1878年、ラーボン・カブア大首長はドイツに最恵国待遇とジャルート港の自由使用権を与えた。

1885年、マーシャルはついにドイツ帝国の保護領になった。

1887年、プロテスタント宣教師がエボン島に上陸。

布教を開始すると外国人襲撃事件も影をひそめるようになったが、周辺の島々ではいまだ不穏な動きが残っていた。

エジット島に開設されたドイツ商館
(D.Spennemann コレクションより)

ドイツ時代のジャルート島の大首長とその家族
(1920・D.Spennemann コレクションより)


日本とマーシャル最初の交流
漁民殺害事件と鈴木経勲の 「マーシャル景況視察復命書」

1884年(明治17年)3月、日本人水夫6名が乗った和船がマーシャル諸島中部ラエ環礁に漂着。

飢餓状態の水夫は同島首長ラレリと部下に襲撃殺害され、船具や酒は奪われて、船体は燃やされ沈められた。

豪州からの帰路、たまたま同島に水補給のため寄港した英国船エーダー号の乗組員がこの話を聞き 、横浜帰港後、ただちに神奈川県庁に報告した。

ここに外務卿井上薫と外務省は事件の事実調査、場合によっては犯人の逮捕や連行、あわせて知られざるマーシャル諸島の地勢調査を行う使節団を派遣することを決めた。

選ばれたのは外務省の2人の御用掛(職員)。後藤象猛太郎と元幕臣の子で北洋密漁船に乗組んだ経験のあった鈴木経勲だった。

 

1884年9月1日、ふたたび豪州に向かう2本マストの帆船エーダー号(80トン)をチャーターした二人は、

横浜を出港、小笠原を経由し、9月23日マーシャル中部のウジャエ環礁に到着した。

早速勢い込んで上陸した経勲らは南の島の異風や習慣に怖じ気をふるい、当時マーシャルの西半分を支配していたカブア大首長に保護を求めるため、居住島アイリンラプラプ環礁に向かった。勿論、日本人水夫が虐殺されたラエ環礁に上陸するなど思いもよらぬ事だった。

 

アイリンラプラプ環礁に腰をすえた経勲と猛太郎は豪州に向かったエーダー号と別れ、大首長のカヌーを借りて周辺の島々の調査や測量を行った。この間の調査結果は、翌1985年(明治18年)1月の帰国後外務省に提出した『マーシャル景況視察復命書』に記載されている。その時の実体験をもとに書かれた現地報告は付帯された島民の衣服、武器、住宅などのスケッチ画とともに大変興味深いものとなっている。

しかし、大首長のカヌーで「探検」したことになっているアイリンラプラプ環礁近海のリブ島、ナム環礁、クワジェリン環礁などの地図や風俗はヨーロッパ人探検家の資料を元にし、間違いもまたそっくり書き写し、彼らが実際にこれらの島に渡航していたかどうかは極めて怪しい。

 

経勲の帰国後出版された『南洋探検実記』では、『復命書』には一行の記述もなかった大首 長の弟を従えカヌーでラエ環礁に乗り込み、首長のラレリと部下を捕縛し、アイリンラプラプまで連行。尋問した内容まで詳細に記述している。

 

その後の出版物では、大首長ラーボン・カブアに日本国の強力さを誇張し、日本国の領土になるよう勧めた。そして大首長の館に日章旗を掲揚して、「血の一適も流さず日本の領土にした」と自慢している。(ドイツ領になったのを知っていた外務省はさすがに驚き、旗を降ろすよう経勲に命じた。) しかし、こうした経勲らの活動は、当時広まっていた海外進出気運=南進論の先駆けになっていく。

 

日本とマーシャル交流の発端となった「ラエ島に於ける日本人水夫殺害事件」は実在したのであろうか。一本マストの和船が日本から5,000キロも果たして漂流できたであろうか。

物理的にはかなり困難である。

しかし、ちょんまげ頭(明治期になっても多くの漁民はちょんまげ頭をしていた)の水夫、日本製の帯や錨、酒樽など島に残っていた物証は、この事件の実在を示しているようだ。

明治の無名日本人水夫が日本とマーシャルの橋渡しになったこの事件はいまも歴史の謎につつまれたままである。

経勲が描き残した大首長ラーボン・カブア像。経勲の南洋に対する偏見のほどがうかがえるが、異文化に接した臨場感は伝わってくる。
(アイリンラプラプかウジャエ環礁・1984年)

ドイツ人が撮影したカブア大首長のポートレート カブア大首長は当時、大型帆船を所有し、年数万ポンドを輸出で稼ぐ、開明的リーダーであった。
(D.Spennemannコレクションより)

伝統的な衣装をまとってロンゲラップから来た若者たち
(1930年代・ジャルート島・D.Spennemannコレクションより)


国際連盟委任統治領・日本の植民地「南洋群島」時代

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟に従い連合国側で参戦、ドイツが租借していた中国・青島(チンタオ)を攻撃、陥落させた。

またドイツ艦隊が撤退した太平洋諸島(マリアナ、カロリン、マーシャル諸島) を無血占領する。

1919年、ドイツ降伏後のヴェルサイユ条約で日本は委任統治領としてこれらの島々を譲り受け、統治することになった。

国際連盟が成立後の1922年、南洋群島を統括する南洋庁がパラオに開設され、1945年の敗戦まで続いた。南洋群島には多くの日本人が送り込まれ、1939年には総人口113,562人のうち、邦人が73,028人。これに対し現地島民は40,406人にすぎず、実質的な日本の植民地であった。

 

群島内には一部の島で燐鉱石が採掘されたが、コプラ(ヤシ油の原料)生産以外取り立てた産物はなかった。

しかし、日本統治下になると製糖業や鰹節生産などが開始され、多くの日系人、とくに沖縄移民が製糖やカツオ漁に従事し、南洋庁の財政を潤すようになった。

サイパンやパラオには日本人町が作られ活況を呈した。

また島民の子弟を対象に4年制の公学校(小学校)も各地に設けられた。子どもたちは校庭の昭和天皇の写真を飾った奉安殿に拝礼し、教育勅語を学ばされた。

大人たちも皇居に向かって敬礼を強要され、「三等国民」と差別されながらも、「帝国臣民」として、何か事あらば国に殉じる覚悟を求められた。

 

委任統治条項で軍事基地建設は禁止されていたが、1933年の国際連盟脱退後にはパラオやトラック島に、

海軍基地が、対米最前線となったマーシャルのクワジェリン、エニウエトク、ジャルート、マロエラップ、ウオッチェ、ミリ環礁などに航空基地や海軍基地が建設され、約4万人の陸海軍守備隊が配置され、太平洋戦争に突入していった。

日本語を学ぶ島民の子どもたち
(ポナペ島公学校・1930年代・南洋群島写真帳より)

校庭の奉安殿に向かいお辞儀する子どもたち
(パラオ島・1930年代)


「玉砕(自決覚悟の突撃死)」と「栄養戦死(餓死)」、
さんご礁の島で戦われた悲惨な戦争

1942年6月、日本軍が大敗北したミッドウェー海戦後、米軍は中部太平洋で反攻作戦を開始。

マーシャルに侵攻した米軍は航空基地があり、約4,000名の守備隊が置かれていたクワジェリン環礁を44年2月に攻め、6日間の血みどろの戦闘で日本軍全員が玉砕。生存者は100名の捕虜と投降した165名の朝鮮人だけだった。

エニウエトク環礁は大戦中、マーシャルからトラック、パラオなどに向かう日本軍機の重要な中継基地だった。当時、同環礁には厳寒の北満州で編成された海上機動第一旅団など2,960 名の日本兵と「建設要員」として強制連行された朝鮮人軍属約300名が駐屯していた。

 


エニウエトク島に上陸する海兵隊員
(1944年2月US NAVY PHOTO)

 1944年2月19日、米機動部隊がエニウエトクを強襲。5日間の戦闘で日本軍は壊滅。

捕虜になった60人を除き全員が戦死した。

戦闘終了後、日本兵と朝鮮人軍属の遺体は米軍が3つの島に穴を掘って埋めたとされている。

 

飛び石作戦で米軍主力がトラック、サイパンへ去った後、ジャルート、ウオッチェなどの島々には約2万人の陸海軍部隊が残された。米軍による海上封鎖で補給は完全に断たれ、連日の艦砲射撃、空爆で備蓄食料、ヤシや野菜は失われ、敗戦までの1年半、日本兵士はひたすら飢餓との闘いに明け暮れた。

 

首都マジュロの北300キロにあるウオッチェ環礁では、米軍機の爆撃で、ヤシの木も食料も焼き払われた。当時、島に駐屯していた3,600人余りの軍人・軍属のうち生きて日本に帰国できたのは、約1,300人で、2,300人の戦没者の大半が「栄養戦死(餓死)」だった。

飢餓地獄を生きのび降伏した日本兵の姿に戦争の真の姿が表れている。

(マロエラップかウオッチェ環礁で、1945年9月、US NAVY Photo)


日本の敗戦と太平洋戦争終結。米軍の軍政始まる。

1945年11月、日本兵が帰国した後、他島に避難していたウオッチェ島民650人が帰島。

その時島民が目にしたのは空襲や艦砲射撃で穴だらけになった島の大地と破壊された軍事施設の残骸だった。これらの島民たちの被害に対して日本国とアメリカは何をしたか。

1969年、日米両政府はミクロネシア全域の戦争被害に対する補償として、いわゆる「ミクロネシア協定」を当事者抜きで締結。同地域に日米両政府が与えた「苦痛」に対し、「同情」を表わし、両国が500万ドルずつを支払うことで賠償問題が解決したと、一方的に宣言している。

ウオッチェ島に残る旧日本軍沿岸砲台跡(1991年)
ウオッチェ島に残る旧日本軍沿岸砲台跡(1991年)
爆弾で穴だらけの発電所跡(1991年)
爆弾で穴だらけの発電所跡(1991年)

米国ビキニで核実験開始、ビキニ島民流浪、
ロンゲラップとウトリック島民の被ばく

1946年7月、太平洋戦争の終結からわずか11ケ月後、アメリカはマーシャル諸島の北端ビキニ環礁で原爆実験を開始した。

実験に先立つ5ケ月前、米海軍高級将校がビキニ島を訪ね、島民を集めてこう命令した。「世界平和のため、この島で原爆実験を行う。島民は好きな島に立ち退いて貰いたい。もし、島がガラスのように壊れなかったらまた帰って来られるだろう」。島民には、強力な日本軍を打ち破った米軍に逆らうなど考えられなかった。島民167人は東200キロのロンゲリック島に移され、以後70年におよぶ流浪の旅が始まった。

 

1946年7月から1958年8月まで、ビキニ環礁で24回、48年から開始された西隣りのエニウエトク環礁で43回の原水爆実験が行われた。

 

1954年3月1日、ビキニで行われた水爆「ブラボー」実験では、近海で操業していた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が被ばく、また東190キロのロンゲラップ島民86人(被ばく線量=1.75シーベルト)、東200キロのロンゲリック島の米観測隊員28人(同=0.78シーベルト)、東480キロのウトリック島157人(同=0.14シーベルト)の頭上にも死の灰(放射性降下物)が降りそそぎ、被ばくさせた。 

 

ロンゲラップ島では58時間後、ロンゲリック島では30時間後、ウトリック島では78時間後に島民と米観測隊員は放射能が充満した島から救出され、南200キロにある米軍クワジェリン基地に運ばれた。

 

しかし、ウトリック島民は1か月後にはウトリック島へ戻され、ロンゲラップ島民は3か月後にはマジュロ環礁エジット島に移された。

ビキニの第1回核実験「エイブル」(US AEC・Photo)。

被ばくしたロンゲラップ島民(US AEC・Photo)。

被ばくしたロンゲラップ村長ジョン・アンジャインさん
(当時31歳・US AEC・Photo)


マーシャルなどミクロネシア、1947年に国連信託統治領になり、
アメリカの施政権と軍事利用を認める。

1957年6月、アメリカ政府は「ロンゲラップ安全宣言」を発表、島民250人(被ばく民85人を含む)は、ロンゲラップ島に帰島した。島にはアメリカ政府が建てた新住宅が待っていた。

しかし、「安全宣言」にもかかわらず、島には大量の残留放射能が残っていた。

 

甲状腺障害、流死産、がん、白血病が島民に発症。苦痛を訴える島民にアメリカ人医師は「安全宣言」をたてに放射能との因果関係を認めなかった。

1985年5月、帰島から28年後、島民325人はグリンピースの支援を受け、ロンゲラップ島を脱出し、南200キロにある無人島メジャトに向かった。きっかけはアメリカエネルギー省が1982年に発行した「北部マーシャル諸島放射線調査報告書」という一冊の本だった。そこには核実験場だったビキニと同程度の放射線がロンゲラップに残っていると書かれていた。これを読んだ島民は島を捨てる決意を固めた。

当初、島を離れるのを嫌がった老人たちも、「子どもたちの未来のために」と説得され、脱出に納得した。

 

メジャト島に脱出したロンゲラップ島民に対し米政府もマーシャル政府も「安全宣言」をたてに一切の援助を断ったので、家を建てるためロンゲラップ島の住宅や学校を解体して運んだ。周辺の魚介類もすぐ取り尽くし、子どもたちは飢えに苦しんだが、移住直後からヤシやパンの木、タコの木を植え、島の再生に取り組んだ。

移植した木々が次第に成長し、移住31年の今は緑豊かな島に変貌し、食生活も豊かになっている。

島から脱出するロンゲラップ島民(ロンゲラップ島・1985年)

離れゆく島を見送る子どもたち(ロンゲラップ島・1985年)

寄せ集めの材木で建てた小屋で最初の数年を過ごした。
(メジャト島・1985年)


1986年9月、マーシャル諸島は「国連信託統治領」から、
アメリカと「自由連合協定」を結び独立国へ
しかし、防衛権はアメリカに委ね、国家予算の60%は援助されるなど、真の独立の道半ばにある。

ロンゲラップ島からの脱出後、島選出のチェトン上院議員とリーダーたちはワシントン通いを続け,公聴会に出席し、上下両院議員を訪ねた。

「アメリカ人は何もわかっちゃいない」と当初チェトンさんはこぼしていたが、徐々に理解する議員が増え、「資金もなく、力に訴えず、ただ理性的な説得」だけがロンゲラップ島民の唯一の手段だった。

 

1989年11月、 島民たちの移住から4年後、米エネルギー省は「安全宣言を出した過去の放射線調査を、全面的に見直す」と発表。

これを受け、ロンゲラップ島では約48億円をかけた汚染除去作業と道路、滑走路、埠頭、海水転換水道施設などの再建工事が2000年から始まった。

 

2010年には50戸の住宅も完成し、ジェームス・マタヨシ村長は「ロンゲラップに帰る事が出来る」と島民に発表した。

これに対して、除染したのは環礁全30島の陸地面積の3%、住宅や公共施設などの15ヘクタールだけ。

ふるさとに帰りたいが果たして安全なのかと、島民の不満が高まり、島の意見は賛成、反対の真二つに分かれてしまった。

 

しかし、被ばく者の高齢化にともない、たとえ放射能の危険があっても自由に暮らせるふるさとの島に帰してあげたいという声が、反対派の中からも強まっている。

憲法記念日の式典(マジュロ島、1986年)
帰島を説明する島民集会(メジャト島、2010年)

ロンゲラップ島に完成した50戸の帰島民用住宅
(ロンゲラップ島、2012年)

帰島を願うネルジェ・ジョセフさん(69歳)と同居するお孫さんたち(マジュロ島、2014年)


マーシャル諸島共和国概要

  1. 人口:約53,000人
  2. 面積:180平方キロ 島数:29 環礁:5単島
  3. 首都:マジュロ島
  4. 言語:マーシャル語、英語
  5. 宗教:キリスト教
  6. 議会:一院制、議員33名
  7. 大統領:ヒルダ・C・ハイネ大統領(女性、2016年1月就任)
  8. 外交・防衛・経済米国と「自由連合協定」を結び、国防・安全保障の権限は米国に委ねている。
    ミサイル実験基地として、クァジェリン環礁が米国に貸与されている。
    韓国に建設される「THAARD」迎撃ミサイル開発にもクァジェリン基地が使われていると言われる。
    主要産業は、コプラ(ヤシ油の原料)と漁業だが、輸出額は少なく、行政、教育、医療などには政府歳入の約60%が自由連合協定による米国からの援助である。
    こうしたことから、外国の経済支援なしには成り立たない国家として強調されるが、人口の半分はほぼ自給自足の営みが可能な離島で暮らし、依然としてささやかだが豊かな暮らしを維持している。

(文責:島田 興生)